初めまして!
かかがらすに興味を持って頂き、ありがとうございます。
こちらでは私自身のこと、そして私が
在宅月収40万円を達成して看護師をやめる
と思った経緯などについて
🔶新人時代に出会ったお局三銃士との日々
🔶田舎の病院で出会った尊敬する先輩方や環境、患者さんとの日々
🔶転職することになった、ある患者さんのアナフィラキシーショックのこと
🔶転職先の病院での仕事と子育てとの両立に悩む日々
🔶在宅ワークをしようと思ったきっかけや現在の状況について
自己紹介をしながら書いていければいいなと思います!
まずは私自身のことからみていきます。
【基本情報】
🔵名 前:かかがらす
🔵生年月日:1989(平成元)年12月10日
🔵職 業:看護師、SNS運用と事務代行
🔵特 技:ルート確保、摘便、集団所属3ヶ月ほどで「何年ぐらいここに居るんですか?」と聞かれる集団適応力
【今まで所属させて頂いた(頂いている)病棟】
✅消化器外科、内科←今ココ
✅呼吸器外科、内科
✅泌尿器外科、内科←今ココ
✅乳腺外科
✅循環器内科
✅眼科
✅休日救急外来(ただしド田舎=平和)
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改めまして、かかがらす、と申します。
現在も300床程の総合病院に病棟看護師として勤めていて、13年目になります。
現在はパートで働いている、一児の母、普通の36歳です。
私のプロフィールになります。
幼少期
共働きの家庭で育ちました。
会社員の父は帰宅後、新聞を広げて夕飯ができるまでテレビを見ている人でした。
父のできる家事は週末の掃除機かけとポストの中の郵便物をリビングに持ってくること、たまの買い物についていくことぐらいでした。
母は私と弟を義理の両親、実の両親の力も借りつつも、だいたいは自分自身、たまにベビーシッターさんの手を借りながら、自宅で英語の講師をして私たちを育ててくれました。
母親が自宅で仕事をしながら家事をしているのが当たり前だった私にとって、在宅での仕事は1つの常識になっていました。
母親とはいろいろありましたが、自分が母親となった今、仕事と家庭を両立しながら私たち姉弟を育ててくれたことはとても感謝しています。
そんなある日。
小学生の夏休み始め、父の作ったインスタントラーメンに入れた生卵にあたってしまい、
食中毒で1か月入院することになりました。
入院した病院は500床の総合病院の小児科。
母親も夏期講習で仕事が忙しく、私が小学1年生だったこともあり、付き添いはできませんでした。
食中毒での入院だったので、個室入院。
小学生になったばかりの夏休みの1か月、病院の見知らぬ個室でお話できるのは、たまに来てくれる看護師さんだけでした。
その中でも、頻繁に私の部屋に来てくれる、ある看護師さんが居ました。
今から思い出しても、たくさん来てくれていたので、気にかけてくれていたんじゃないかなと思っています。
病気やケガで入院した時の孤独感、寂しさ、不安…
すぐ治してくれなくてもいい、ただそこに居て、話を聞いてくれるだけでも構わない。
相談に乗り、小さな助言をしてくれたら、もっとありがたい。感謝しかない。
小学1年生の私でも、忙しい中たくさん来てくれる看護師さんの心遣いや温かさを感じることができていました。
この看護師さんみたいな、病める人に寄り添える看護師さんになりたい!
少しでも人の支えられる大人になりたい!
そんな憧れから、看護師になることが私の夢になり、目標になりました。
🔵母親が在宅で仕事をしていたことで、私にとって在宅ワークは1つの選択肢だった。
🔵憧れの看護師さんに出会うことで、
自分が目指す職業と大人の理想像を描けた。
🔵自分が目指す大人、何がしたいかということが明確になった。
学生時代
私は小学生の時はパソコン部、中学生の時はソフトテニス、高校生の時は放送部、大学ではオリエンテーリング部、と文化系部活と運動部をいったりきたりをしていました。
勉強の方はあまり得意ではなく、だからといって看護師以外の肩書きにも不安があった為、看護師資格と同時に保健師や助産師、養護教諭の資格が取れる大学に進学しました。(当時はそんなに偏差値高くなかった。)
大学では「看護師にさえなれれば人生安泰!保健師とあと1つ資格があれば人生勝ち組じゃない?」と特に将来を考えず、演習や実習に明け暮れつつ、サークル活動や飲み会も適度に楽しんだキャンパスライフでした。
在学中に保健師と養護教諭の免許も取得し、看護師以外の道も考えたのですが、当時は「病棟経験があってナンボ」と言われていた時代だったので、結局はじめは病棟看護師になろう!という決断をしました。
大学4年になる頃に就活をはじめ、
運良く幼少期に入院経験があった、500床ほどの公立総合病院に就職内定することができました。
なせこの病院を選んだかというと
「自分もこの病院に就職すれば、あの憧れたあの看護師さんみたいな看護ができる!」
という完全なる憧れからでした(笑)
🔵看護師に”なること”が目標になってしまい、
自分が目指す大人の理想像が置き去りになっていた。
🔵看護師になりさえすれば、人生安泰だと安易な考えでいた。
新卒で憧れの総合病院に就職、暗黒新人時代
晴れて憧れの病院に就職したのもつかの間、早速3人のお局様との交流が、頭を悩ませました。
同期の中でつけたあだ名はもうほぼ忘れてしまいましたが、「隊長」と「電波先輩」のことはよく覚えています。
「電波先輩」は話しかけても基本的には答えてくれません。フォローについて頂いていても、視線は合わず、いつも別の方向を見ており、お話が聞ける!と思ったら想定していたこととは全く別の質問などが返ってくる。このことから「何か別の電波を受信しているのかもしれない」と同期の間で発想にいたり付いたのであだ名が「電波先輩」でした(笑)
「隊長」は元自衛隊病院出身。短髪でサバサバとした超ベテランナースで、患者さんに「あの看護師さんは男性?女性?」と聞かれるぐらい男性のような、割とガッシリとした物腰の方でした。
言いたいことは新人であろうが、師長であろうが、部長の医師であろうがガンガン言う、嵐のように爆速で検温やケアを終わらせ、記録を3本指でタイピングし、定時で颯爽と帰宅。夜勤中はタバコ休憩でたまに失踪するという、クセ強なキャラでした。
そんな先輩方に指導されながら私は1年目、数え切れない程、失敗をしました。
中でも、付き添っていた患者さんが転倒してしまったことと、一番最初の夜勤の初っ端の巡視で、死亡発見となったことは今でも心に焼き付いています。
付き添っていた患者さんが転倒してしまった時、
詰所のド真ん中で「隊長」に看護師としてどんなにあるまじきことをしてしまったか怒鳴られ、背中を叩かれ、
その場では泣けずにトイレで泣いたことは今だからブログに書ける、良い思い出です。
「隊長」、ヒドイ先輩だなと思うかもしれませんが、
2年目からは
「○○(私の本名)〜、今日も頼むで!私は〇〇さん(1番手のかかる患者さん)以外なんとかするから!」
と少しは(?)頼られる存在になれたことは看護師として臨床経験を積んでいる中で大切な経験の1つになっています。
そんなお局三銃士と戦いつつ、妊娠されて終始機嫌の芳しくないプリセプターのもと、
たくさんの失敗を経験し、今の私があります。
看護師1年目は人生で2番目に戻りたくない時代ですが(1番はもちろん学生時代の病院実習)10年以上病棟看護師をしていると「あの頃は若かったなぁ」と思えるものですね。
今考えてみれば、「電波先輩」が話しかけても答えてくれなかったのは、別の業務や患者さんのことで頭がいっぱいだったのかもしれない。
フォローについて頂いていても、視線は合わなかったのは単に人見知りだったからかもしれないし、いつも別の方向を見ていたのは患者さんに関することに関心が向いていたかもしれない。
想定していたこととは全く別の質問が返ってきたのは、新人が考えている狭い視点を広げようと、あえて違った視点での質問をしてくてていたのかもしれない。
本当は全然違うかもしれませんが(笑)
こう思えるようになったことが、年を取った、成長した、ということなのかもしれないですね。
🔵看護師になるのはスタート、なってからが大変だと全身で学んだ。
🔵不器用でも、がむしゃらに、かじりつき、向き合い続けることで先輩に認められる仕事ができるようになった。
不眠症との戦いと転機
3年目になり、病院の病棟編成が変わり、外科・呼吸器外科・乳腺外科病棟から呼吸器外科・循環器内科病棟に異動になりました。
「電波先輩」は別の部署に異動となったのですが、なんだかんだ慕われていた?「隊長」と一緒に慣れない心電図と日々戦っていました。
しかし、同時に新部署では最大の壁、師長と副師長からの罵倒との戦いも始まりました。
循環器内科は心臓を扱うがゆえ、心電図変化の見逃しも許されません。常に波形に気を配りながら、カテ出し迎え、OP出し迎え、検査送迎をこなしつつ、不穏やせん妄患者さんの安全にも気を配らなければいけません。
私は正直、臨床経験10年以上ある今でも(5年目よりはあるかもしれませんが)マルチタスクは得意ではありません。
しかもその時は看護師3年生。ようやく一通りの仕事ができ夜勤がこなせるようになったものの、まだまだ知識も経験も足りない時期にも関わらず、1年目も居るから指導はそちら優先で一番手薄で「やらかしがち」な時期ですよね。
師長や副師長はそんな私が危険だと判断し、危機感を持ってしっかりするように(?)日々指導して頂きました。
「そんなんじゃいつか人を殺してしまう」
「看護師向いてない」
「この3年間なにをしてきたの」
…他にもたくさんあり書ききれません。令和の今の指導じゃ考えられないかもしれませんね。
憧れだった看護師。
やっとそれなりにこなせるようになった仕事を、ことごとく否定され続けた私はだんだん眠れなくなりました。
何が困ったかというと、それまでは夜勤入りの日はすぐ寝れて、夜勤中しっかりと起きていられたのが、寝れないことで夜勤中のミスが増えたこと。ミスが夜勤だけでも問題なのに、日勤でも日に日に増えていくこと。
不眠症による弊害で日々の指導はさらに増え、さらにミスが増え…悪循環に陥りました。
正直、この日々のことはあまり覚えていません。ただただ、今でも思い出すと涙が出そうになります。
しかし、そんな日々の中、年度が変わるという年度末、転機が訪れました。
🔵自分という人間が、何が苦手でどんな時に失敗するのか、ということを知って具体的な対策をとることが大切。
🔵自分を本当に大切にできるのは自分!自分の身体的、精神的限界を知ることが、自分の為でもあり、結果的に周囲に迷惑をかけない。
悔しさと環境への感謝
年度が変わる4月から、別の系列病院へ異動になったのです。そこは50床にも満たない、田舎の病院でした。
どのぐらい田舎かというと、現実的な交通手段はバスか車のみ、車でも片道1時間、電車+バスなら片道2時間という田舎です。
私は地方で育ちましたが、比較的街中で基本的にバスか電車、自転車が主な交通手段でした。
自動車免許も持っていましたが、大学時代に身分証代わりにと取っただけで完全なペーパードライバーかつゴールド免許という状態で車も持っていませんでした。
異動の理由は「電子カルテ導入の為、スタッフにカルテの操作方法についてレクチャーして欲しい」というものでしたが、不眠症で精神的にも身体的にも参っていた私は通勤手段が絶望的過ぎて「え、どうやって通勤したらいいの?住むの?つまり辞めろってこと?」とばかり考えていました。
2月末からペーパードライバー教習を受講し、車を現金一括払いで購入(人生で2番目に高い買い物だった)購入した車で実地講習を受けながら準備をしましたが、4月の出勤には間に合わず、1か月間はバスで片道1時間以上かけて通勤していました。それでも時間が合わずに通勤のついでに先輩方の車に乗せて頂いたことも多かったです。
通勤だけで2時間あります。ぼんやりと窓の外を眺めながら、いろいろなことを考えていました。これまでのこと、これからのこと、不安なことが多かったですが、少し自分の中でもどこかでほっとしたことを覚えています。
また、職場の先輩方や後輩にも恵まれました。田舎なのもありますが、患者さんも穏やかな方が多く、時間もゆったりと流れていました。師長さんも現場主義の方で、誰よりも患者さん1人1人を理解し、ケアに気を配り、自分でもケアを行い、私の中で尊敬する方の1人です。
急性期病院で4年以上勤められなかったという悲しさもありましたが、この異動先では様々な経験もさせて頂けました。土日は薬剤師さんが居ないから分包機での調剤方法も学べましたし、外来の看護師さんも当番は居ないから病棟で担っており、土日祝日の救急外来も任せて頂けました。
救急と言っても田舎の小さな病院なので、設備が揃っておらず、本当に大きな病気やケガは消防ヘリや救急車での搬送へ回されるので、処置するのは軽微なものが多かったですし、マムシに噛まれたとか特殊な事例は学びにもなりました。
人や環境に癒された1年半でした。
労働環境って、こんなにも大切なものだったのかと気づかされ、感謝する日々でした。
ただ、当時も不眠症の薬を服用していた私にとって、夜勤をしながらの片道1時間の通勤はどうしても続ける未来が見えませんでした。
そんな時、あるできごとをきっかけに、私は転職を決意しました。
🔵同じ環境で踏ん張り続ける根性も大切だが、限界を迎える前にすべきは環境を変えること。
🔵働くことは生きること。一緒に働くことは一緒に生きることなので、一緒に働く人間関係を変えることは生き方を変えることに繋がる。
看護師としての逃げと再挑戦
私が田舎の病院に異動して半年後、ある女医さんがかつて私が居た同じ病院から異動してきました。
その女医さんの専門は循環器内科。つまり、同じ部署で働いたことがある方でした。私が前の病院でどんだけポンコツだったのか、よく知っている方です。
ある日、抗生剤投与中の患者さんからナースコールがあり、訪室すると全身チアノーゼ、呼吸促拍、喘鳴もみられていました。
4年目になる私は経験こそありませんでしたが、知識としてはもちろんあったので、とっさに
「これは抗生剤投与によるアナフィラキシーショックだ!」
と判断し、抗生剤を投与していたクレンメを閉じ、すぐ詰所にかけこんで
「○○さんが抗生剤でアナフィラキシーです!来てください!」
と叫びました。
師長さんと先輩方はすぐかけつけてくれ、現状を主治医へ報告するよう言われました。
主治医は元同僚の女医さんでした。私のポンコツ時代を吹聴していることを知っていた私は少し躊躇しましたが、看護師として勇気を出し、外来中のその女医さんへコールしました。
「お疲れ様です。○○です。○○さんがセファゾリン投与中、顔面蒼白、四肢冷感著明で呼吸促拍、喘鳴もみられています。セファゾリン投与中断していますが、診察をお願いします。」
この間にも、先輩方がバイタルサインを計測してくれ、血圧低下がみられました。
バイタルサインについても報告しようとしましたが、信じられない言葉が返ってきたのです。
「はぁ?アナフィラキシーな訳ないやろ。セファゾリンなんで止めてんの。再開して!」
すぐ電話は切れました。
女医さんの返答について師長さんへ即報告すると、たまたま病棟に来ていた部長さんも診に来てくれ、即アドレナリン筋注の指示が出て、筋注し、その場のスタッフ全員がほっとした時、女医さんが表れ1言。
「あ、これアナフィラキシーやね!」
この時、この女医さんが次期医院長になることが院内で噂になっており、
私の尊敬する師長さんはあと1年で定年退職が決定していました。
看護師の業務は保健師助産師看護師法でも定められているように、
医師の指示のもとで行われる「療養上の世話と診療の補助」ですよね?
医師の指示がなければ、薬剤の投与に関して自己判断での実施や中断はできません。
私がポンコツだった過去は変えられない事実で、否定する気もありません。
ただ、結果的に、起こっている現状を正確に報告したにも関わらず、
診察にも来ず否定され、患者さんの命を危険にさらしてしまったことは事実でした。
職場の同僚や環境の大切さが身に染みていたからこそ、
「私はこの場所で看護師を続けていくことはできない。」
と感じ、具体的な行動へと繋がったと、今でも思っています。
🔵どんなにがんばっても、本質的に”合わない”人は居る。
🔵自分が大切にしたいことと、その本質は何か?を考えるきっかけを逃さない。
転職とぎっくり腰、結婚と育児を経て
田舎の病院では1年半の間お世話になり、4年目後半からは通勤時間が自転車で20分の300床ほどの私立病院に転職することが出来ました。
不眠症の治療も続けてはいましたが、薬を飲む量も減り、
久々の急性期に張り切り過ぎてぎっくり腰(当時まだ26歳だったのに;;)になったりしましたが、
同僚や上司にも恵まれ、結婚、妊娠、出産、産後復帰1年まで、忙しくも充実した日々を過ごせていました。
妊娠を期に不眠症の薬の服用をしなくても良くなり(妊娠中はひたすら眠かった)
産後8カ月で復帰した私は仕事と育児に奔走し、気づいたら子どもが1歳になっていました。
子どもが1歳になると、国の制度としてまず労働時間の制限がゆるくなります。
これにより、免除されていた土日の出勤が始まりました。
私の夫も看護師をしています。お互いに不定休なので、保育園の保育時間が短くなる土曜日や日曜日はどちらかが休まなくてはいけません。
夫の休み希望が月に3日間出せるので、夫に土日の3日間、休み希望を出してもらい、私がその日に出勤することで調整しました。
私たち夫婦は同職種で結婚したので、月に一緒に過ごす日が2,3日しかない月もありましたが、すれ違い生活には慣れていました。
ただ、子どもが大きくなるにつれ、「寂しい」という感情が分かり表現できるようになってくるにつれ、子どもへの申し訳なさを感じ始めました。
ただ、育休からの復帰で初めて子どもを預け、泣かれる日々を送ったように「いつか子どもも分かってくれる」という思いはまだありました。
もともと私は子どもを産んでも看護師を続けるつもりで居ましたし、
続けられるために、
・妊娠中から条件に合う保育園見学
・ベビーシッターさんやファミリーサポートの制度を調査、申し込み
・病児保育先の調査や選定、申し込み
これらをすぐ使用できるよう整え、育休復帰と同時に制度をフル活用しつつ、
急性期病棟で働いていました。
そして子どもが3歳になった時、新たな絶対に越えられない壁があることに気が付いたのです。
🔵公的私的補助の制度は誰も教えてくれない。自分で調べ、情報を取りに行くことで実家や義理両親ナシでも1年間は急性期病棟復帰は可能だった。
🔵子どもの「寂しい」気持ちを受け止めながら、なんとか踏ん張ることは可能。踏ん張ることで子どもの成長にも繋がっている。
夜勤ゼッタイの看護師業界と在宅ワークへの可能性
私が勤めている病院では子どもが3歳になると夜勤免除が一部撤廃されます。早出か遅出を月に4日以上もしくは夜勤を3日以上、あるいは毎日遅日勤というものです。
夫の休み希望は3日までなので、早出か遅出を月に4日以上は不可能でした。選択肢としては夜勤を3日以上あるいは毎日遅日勤でしたが、夜勤をすることでこれ以上家族のすれ違いを避けたい、そして不眠症の再発を恐れた私は毎日、遅日勤(9時~17時半)をすることにしました。
しかし、毎日、遅日勤(9時~17時半)をすることで残業時間が更に増え、保育園のお迎えに間に合わない日々が続きました。仕事が終わり切れない日もあり、同僚や保育園、子どもや夫にあやまり続ける日々でしたが、なんとか踏ん張っていました。
ある日、師長との面談があり、衝撃の事実を改めて突きつけられました。それは子どもが小学生になったら、夜勤免除はなくなる為、もし夜勤が難しいのであればパートへとならないといけない、ということでした。
毎日、遅日勤(9時~17時半)でも精一杯な現状、それにただでさえ職場との両立が難しい「小1の壁」と同時に夜勤(月に9回)も始まる事実にうすうすは気が付いていましたが、絶望しました。
夫と夜勤が被ったら誰が子どもをみてくれるのか?
さらにすれ違いの日々で誰が子どもの宿題をみるのか?
全てベビーシッターさんとファミリーサポートさんで解決する策も検討しましたが、私の収入の半分以上が子どものシッターさん代で消えてしまう事実しかありませんでした。
そこまでお金や予定調整の為の時間を使っても子どもからは「寂しい」と言われてしまう。
何より、この一番かわいい小さな時期に子どもと関わってあげられない不甲斐なさも埋められない。
果たして、私はそこまでして常勤看護師を続ける意味はあるのだろうか?
看護師は続けたい、しかし夜勤ゼッタイの看護師業界では、常勤は続けられないという結論でした。
しかし、パート看護師となるということはボーナスはありません。
年収は1/4ほど下がってしまいます。
我が家は看護師の夫のお給料で家のローンから食費などの生活費すべてをまかない、私の収入は全て貯金に回すというお財布事情でしたが、教育資金や教育資金を貯める必要がある現状、このロスは見逃せませんでした。
ではどうすべきか。
子どもの寂しさをある程度カバーしながら、収入も得るために私が出した結論。
それが在宅でお仕事をするということでした。
🔵今の日本の制度上、どんな手段を使っても越えられないものはある。
🔵壁にぶつかった時、ただ嘆くのは非生産的。自分はどんな人生を送りたいのか?を考えるきっかけとして捉え、行動したことが今の自分に繋がった!
在宅で何を仕事にするか
師長と面談してから、私はあらゆる在宅ワークについて調べました。
🔶アフィリエイト
🔶物販せどり
🔶ポイ活
🔶資格取得のオンライン講師
どれもよく聞きますが、
アフィリエイトは収入を得るまでに時間がかかるし、
物販せどりは在庫を抱えるリスクが気になり、
ポイ活はもともとやっていたものの、しっかりとした収入には繋がらないことは分かっていました。
オンラインでの資格取得やその資格を使った講師活動を始めたものの、
私が取った資格のブームが過ぎればすぐお仕事がなくなると途中で気づいたこともありました。
(結局5つ資格を取得し講師にはなりました。)
そんな中、当時はコロナ渦だったので、
看護師の同僚はつぎつぎと辞めていき、
何度もクラスターが起き、
さらに人が辞め、
残業が多く悪循環に陥っていました。
それでもGoogle検索で出てきた
在宅ワークに関する記事やX(当時はTwitterでした)のポストを読み漁る日々でしたが、
ある日、私の人生を変えるポストが目に入りました。
人手不足なんてSNSを使えばお金をかけずに一発で解決するのに、なんで皆、転職会社に大金払って人雇って、また辞められてを繰り返してるんだろう
というものでした。
SNSは娯楽として見る専だった当時の私には衝撃的でした。
SNSが仕事になる?
どういうことなのだろう、と。
🔵まずはやりたいことを中心に、できることを調べて書き出してみる。
🔵書き出した中で、より現実的なものをピックアップし、まず試してみる。試せない人が多いので、試すだけでも大きな一歩!
自己流で事故からの学び、その先へ
SNSを仕事にするということについて色々と調べ「SNS運用代行」というお仕事にたどりつきました。
スクールなども出てきましたが、「わざわざお金を払う必要はないかも。まずは自分でやってみよう!」と思い立ち、これまで見専だったXのアカウントでつぶやくことから始めてみましたが…
副業界隈では有名な「自己流は事故流」と言われるパターンに見事にはまり、
私のポストは10前後しかリーチせず、ただただXの片隅で孤独を味わうだけの日々でした(笑)
そこであるスクールに入会し、個人でお仕事を受けて仕事をしていくことの基礎から学び実践することで、Instagramなどを通してお仕事を獲得。
看護師業をパートへ切り替えてから、ゆっくりと在宅ワークでの収入は増え、
1年で月収10万円を安定して獲得するまでになりました。
・まずはやってみるのも大切だが、自己流は事故に繋がる。学ぶ先を間違えなければ理想は実現できる。
・ついつい今の環境の不満を愚痴ってしまうなら、そのエネルギーを挑戦へ向けることで現状は打破することはできる!
しかし、私はまだ道半ばです。
今回このブログでは、「私、在宅ワークで看護師辞めます」というタイトルで
元ポンコツのヒラ看護師が在宅で月収40万円を獲得し看護師を辞めるまでのプロセスを書いていこうと思っています。
フリーランス界隈でまず直面する「0→1の壁」
(初案件獲得までに直面する困難)を看護師をしながら半年で乗り越えた方法と、
その後の「1→10の壁」
(初案件獲得から実際にお仕事を回していきながら新たな案件を獲得しつつお仕事の幅を広げていく困難)を1年2カ月かけて乗り越えていく詳細を記録していきたいと考えています。
看護師は続けたい、でも別のことに挑戦したいけど迷いもある
在宅ワークなんて無理。どうせ稼げるなんて詐欺でしょ?
看護師フルタイムの時と同じ、もしくはそれ以上の収入を在宅で得たい!!
と考えている方の参考になれば幸いです。
これまでの長文にお付き合い頂き、ありがとうございました!
良ければ他の記事にも目を通してみてくださいね♪
かかがらす
36歳 | 病棟看護師を続けながら在宅ワークに挑戦して2年目 | 事務代行×SNS運用代行【YouTube+TikTok挑戦予定】 | 看護師を辞めて独立を目指す「私、在宅ワークで看護師辞めます」にて具体的な方法を情報発信中